映画は時代を映す鏡 

<ブログ18年目です>

ヒッチコック監督作品の”予告編”

前回に続き、”予告編”について、ひとこと。

映画は、予備知識なしの状態で観るのが理想的だと思っている。
映画館のなかで、胸ときめかせ、次の展開にワクワク・ドキドキというのが映画の楽しみのひとつなのだから。
映画館で強制的に見せられる”予告編”には、ルールがあるはずだ。すなわち、
①ネタバレしてしまうと興味が半減してしまう映画は、そのネタを見せてはならない。
②映画での最大の見せ場シーンは見せてはならない。
③ラストシーンは見せてはならない。
だが実際には、映画のダイジェスト版のような予告編があるから、嘆かわしい。

ヒッチコック監督作品の”予告編”が、理想的ともいえる。
とにかく絶対ネタバレしないで、観客に「見たい!」という予告編を作ることに精力を注いでいるのだ。

全篇が”室内”で、ワン・シーン撮影のように見せる実験的映画である「ロープ」の予告編は、なんとニューヨークの公園という”屋外”のシーン(上の写真)から始まる。
この場面は予告編のためだけに撮影されていて、観客は映画館で初めて室内だけのワン・シーンに驚愕することになる。

いわば”フェイク予告編”は、「サイコ」でも。
有名女優が全裸でしかも映画の半ばで殺されてしまうというショックは、絶対予告編で見せてはならない。そこで、考え出されたのが、違う女優で見せること。
これでは、観客は完全に、だまされてしまい、映画館での観客のショックは倍増すること必至。

「裏窓」では、ジェイムス・スチュアートが画面に向かって、覗きが”病みつきになってね”と語らせる。
予告編では、殺人事件のことは一切ふれていない。
観客はいったい何が起こるのか?と、興味深々となるのだ。

「鳥」では、監督自らが”鳥がいかに人間のよき友か”について語り、話が終わって、最後のワンカットだけにヒロインが登場し、”やって来るわ!”と叫ぶ。
鳥が人間を襲うという場面は、予告編には一切出てこない。

予告編で、観客に”ミス・リード”するという手法もある。
ヒロインの異常な行動と心理の裏にあるものを解いていく映画「マーニー」では、監督が、この映画を”セックス・ミステリー”といい、観客の興味を二人のセックス・シーンに注がせている。

このように手を変え・品を変えて作っているので、予告編も優れた監督作品となっている。


マイブログ記事から 「映画予告編の最高傑作といえば、」
http://d.hatena.ne.jp/uramado59/20090606/1244274769