映画は時代を映す鏡 

<ブログ18年目です>

1965年、映画制作の頃

ゴーストライター」を観て、ロマン・ポランスキー監督の15分の短編映画「タンスと二人の男」(1958年)を思い出した。
高校生時代に、atgアートシアターで観た。

海の中(初期の監督代表作に「水の中のナイフ」がある)からタンスを抱えて歩いてくる二人の男、人生の重荷を詩的に描いて、シュールな映像表現に天才作家の片鱗をみた。
この作品は、”映画大学の卒業制作”だという。

そこで、一気に大学での映画制作時代にタイムスリップ。

<私の映画遍歴12 大学生時代>

1965年、私が大学2年生のとき、映画研究会仲間と自主映画を撮った。
この頃の学生が制作する自主映画は、「16ミリフィルム・トーキー版」というのが一般的。
家庭映画の8ミリでもなく、映画館での興業である35ミリでもない中間に位置づけられる16ミリのフィルムで撮った映画。

映画を作るといっても、学生には資材も資金もない。
費用は、16ミリ撮影機のレンタル費用、16ミリフィルム代と現像代、それに編集と録音にかかる費用が必要だ。
映画制作は、まづ資金集めからと。先輩に寄付を募る。皆が多少なりとも応じてくれたから、嬉しかった。
俳優にお金はかけられないので。女優は演劇部からのボランティア、男優は仲間から調達した。
シナリオは仲間で応募した作品の中から、先輩3年生の作品が選ばれた。
監督が決まり、私は後輩と二人で撮影を担当。
どうしても望遠レンズで撮りたいという場面があり、望遠レンズ(これが高価なのだ)を1日だけレンタルして撮影しようとしたが、雨で失敗というようなこともあった。

そして上映時間30分の映画は完成し、学生映画祭に出品できた。
1965年11月に開催された「第10回全日本学生映画祭」は、過去最大の出品作19本と、大盛況の年。
日本映画が大きく衰退し、危機感があった時代だが、若松孝二監督の独立プロ映画が学生に支持されたり個人映画やアングラ映画が注目されていたという背景もあって、自主映画制作が増えたのではないか。
だが、こと学生映画に対してマスコミは、「しょせん草野球にすぎない」とか、「ひとりよがり」、「想像力の画一化」などと、酷評であった。
それでも、我々は「草野球でもかまわぬ。自己を表現できた!」と、気勢をあげていた。

この映画祭の実行委員長は、早稲田大学映画研究会の梶間俊一
卒業後に東映に入社し、「ちょうちん」、「疵」などを監督した。
映画祭に出品し、映画への情熱や才能があっても、日本映画界の斜陽化で、監督を新規に採用しなかった時代にあって貴重なひと。

現代では、映画監督への登竜門として、「ぴあフィルムフェスティバル」がある。
黒沢清中島哲也ほか数多くの監督がここで認められて活躍している。
機材もビデオカメラで可能、フィルム代や現像料もかからない。
なんとも良き時代であるが、それだけ競争も激しいということだ。

                                    <続く>